2016年7月アーカイブ

家族旅行の思い出

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私の家はわりと頻繁に家族旅行に行っていたように思います.

白浜,金沢,広島,九州,名古屋,伊勢,那智の滝,長野などなど...子供の頃はとにかくいろんな場所に家族旅行に行った思い出があります.

その中でも一番楽しかったような気がするのが,九州一周旅行です.九州へは自家用車を積んでフェリーで行きました.奈良から大阪に出て博多へ.その時私は小学6年くらいだったような(旅行のために学校を1週間休みました...これだけは覚えている.),うーんほかはあまりよく覚えていない.初めてのフェリーでの宿泊にドキドキ.船の中に旅館みたいな部屋があってそこで一泊しました.

吉田船.png

 博多,由布院,阿蘇山,桜島,長崎,博多の順番に回ったと記憶しています.

しかしながら,ほとんど何も記憶に残っていません.

覚えていることを羅列すると....
阿蘇山で初めて茶色の牛を見て「牛乳石鹸の柄の牛じゃない!」と驚き,桜島は噴火していたので近寄ることができず残念に思い.オランダ村ではよくわからないガラズ細工のお土産を買いました.また,博多の印象は都会だな~というくらい.

吉田山.png
 
いろんなところに旅行に連れってもらったけれど,あまり覚えていないのが残念というか,親に申し訳ないというか.

正直いって,旅行を含めて他のことに関しても,私は子供時代の記憶があまりありません.ただなんとなく生きていただけでした.何故か受験もしないのに学習塾に週3で通ったり,習い事もそれなりにしましたが,自分の意志がないので身につかずじまいでした.ただ記憶にあるのは,幼なじみと毎日ふざけていたことくらい.いつも登下校中にかくれんぼをしていたので,なかなか目的地(家や学校)に着かず,先生や親に捜索されたりしました.こんなアホな児童だったので,いまになって親から聞いた話によると,中学受験組の親からは近づくとアホが伝染りそう~と嫌われていたらしい(笑).

記憶にあるのは高校生くらいからだろうか.その頃になると,意志がはっきりして,目的にもとづいて行動するようになったような.(でも毎日ゲームをして遊んでいたけれど.)高校の頃から今の職に就きたいと思っていて,学部選びも偏差値ではなく,自分の興味の分野に即しているかどうかについて慎重に判断して決めました.そのおかげで学部時代はとても楽しかったし,有意義なものでした.

旅行の思い出からかなり逸れましたね.親としては多くの体験をさせようと様々な場所に連れて行ったのでしょう...しかし,効果は無かったようです.残念.

今回は何を言いたいかわからない記事ですがこの辺で,終了.

では,また.

家族旅行の思い出~S等氏の場合~

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子供の頃、家族とどこかに出かけた事はあるけど、あまり記憶に残るようなものはありません。
強いて言うなら、小学校4年の時に親戚のおじさんが結婚(再婚です)して、なぜかその叔父一家と一緒に丹後後半島に行った事は憶えています。


当時丹後半島はよく怪獣が出没し、海上自衛隊と戦っているような日々でした。
親戚の叔父は一応生物学者的な人で新種のクラゲを発見したりした事もあります。
ですので本来は生物に詳しいはずでした。
しかし、彼の化けの皮がはがれるのは時間の問題でした。
そもそも彼の間違いは、当時小学校4年で既に水泳クラブに何年も所属し、海の泳ぎも一人前であった私を軽く見た事が原因かも知れません。
彼はその日、太陽でさえも熱くスタバで抹茶パフェを頼みにいこうかと思うような午後1時に、自分は海に詳しいので少し遠洋まで出かけると言い出しました。
私は彼についていきました。
S藤1.JPG

彼は浜辺から15メートルくらいで泳ぐの止め、私にそこで待つように言い、そこから素潜りで5メートル下に潜りました。
しばらくして水面に上がってきて、彼は言いました。「下に大きなタコがいるので槍で突いて捕まえる」と。
私はただ彼が再び潜っていくのも見てしばらく待っていました。

S藤2.JPG


そしたら彼が再び水面に上がってきて言いました。岩場に槍が引っかかり取れなくなったから諦めると。
そしてそのまま新婚夫人の待つ浜へ引き返しました。
ところで当時の私は素潜りが得意でした。スイミングスクールの練習用のプールではよく25メートルまで潜って泳ぎ、そのままターンして大体45メトールくらいまで潜ったままで泳ぎ、コーチによく怒られていました。
ですので水深5メートルは、海という条件、また水平ではなく垂直に潜るというコツは必要でしたが、自分の許容範囲でした。
私は人生初の現場検分をしにタコ殺未遂事件の現場に向かいました。
そこで見たのは次のものです。
① タコはいた。しかしそれは5センチくらいだった。
② 岩場に凶器の銛はなかった。
③ 銛はタコの胴体にささっていた。
④ タコは平然と生きており、怒っていた。
経験のある人ならわかると思いますが、タコは脊髄をささないと死なないので、それ以外だと平然と生きており、吸盤は岩から離れないです。
例え5センチのタコでもその吸盤の力はとても凄く大人でも引きはがす事は無理です。
結局叔父は5センチのタコに戦いを挑み、間違ったところを銛を刺してしまい銛をタコにとられたということです。

S藤3.JPG
この敗北について、私は浜に帰ってから子供特有の無邪気さで、新婚の嫁の前ですべての真実を語り、彼のプライドを散々引き裂いた事は、私を知る人でしたら容易に想像がつくと思います。

家族旅行の思い出~スタッフKの場合

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空調工事でお店は閉まっていますが(7月11日~14日まで)みなさんこんにちは!WRITING LAB.スタッフKです。

今月のテーマは「家族旅行の思い出」。家族旅行と言えば、やっぱり子供の頃の旅行が一番印象的です。

子供の頃は7月も今頃の時期になるともう意識は夏休みへ飛んでいましたよね?個人的には一年でこの時期が一番好きでした。

 

うちの家では夏の旅行に関して「今年はどうする」という話はありませんでした。父の会社の保養施設(提携旅館?)が六甲山にあったため、小学生のころは毎年そこへ行っていたのです。他の場所への旅行の記憶は全くないので後々聞いてみると、3歳くらいまでにあちこち連れまわし過ぎたため、お出かけを拒否されるようになったからだとか。

確かに私も弟も子供のくせに出不精だったため、夏の旅行でさえ出かけるまでのテンションは異常に低く、毎年「ああ、面倒くさい」と思っていたのを憶えています。

今思えば毎年恒例になっていたからこそ、大人になった今でも記憶に刷り込まれているのですが。

 

明石の自宅から電車、バスを乗り継いでケーブルカーで山頂へ。山頂の公園でちょっとリフレッシュして、そこからはハイキングになります。

虫取り網は常に手に持ち、いつも8月20日前後の旅だったので赤とんぼを捕まえたりツクツクホーシの声を聞きながら山道を歩きます。

あんなにテンション低く出てきた旅行ですが、私も弟も出てさえしまえば満喫するわけでして。

 

*この8月20日前後という旅の日程も曲者で、子供には酷なスケジュールでした。まだまだ休みが続くという雰囲気もお盆が過ぎると急になくなり、新学期と宿題の影がじわじわ濃くなります。テレビのアナウンサーの「夏休みもあと少し!」という何気ないフレーズにもピリピリしている最もナーバスな時期なのです。 

ああ、旅の話でしたね。

 

ハイキングの途中でゴルフ場の開けた場所に出て、そこから見える夕焼けとヒグラシの声がもう最高に切なくなります。

日が沈もうとするころ、ようやく旅館に到着してすぐにお風呂です。くたくたの体がもう一度しゃんとして、夜の食事はいつもすき焼きでした。

そのあとは昭和お決まりの「ピンポン」で遊び、ほどよく疲れて就寝。

翌日は六甲カンツリーハウスでパターゴルフを堪能。そのあと写真を見ると白鳥のボートに乗ったりしています。

でも毎年必ずやっていたのが、池の端にある四角い飛び石のすきまで小エビを捕ること。

誰もやってなかったので、家族4人でしげしげと石の間を見ては手でバシャっとやっていると、道行く人がほとんど「何が捕れるんですか??」と聞いてきました。

ある年はみんなもやり始めて、飛び石の上が人でいっぱいになりました。昭和ですねえ。

そしてリフトに乗ってカンツリーハウスを出ると、この旅行も終わりです。毎年リフトに乗ると、「ああ、今年の夏も終わったな」と思ったものです。

 

昔の写真は「フィルム」時代ですので、風景写真がほとんどありません。時効の写真を少しだけ。(若干色あせ気味の写真を色調整で再現)

ku.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*どこから見ても昭和のリフト乗り場。どうしてこんなに誰もいないのかは謎です。

この旅行は私が中学生になるまで続いたと思います。今はその六甲山付近に住んでいるため、宿泊することはなくなりましたが、ぜひまたカンツリーハウスに行ってみたいです。

 

 

 

 

家族旅行の思い出

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今月のテーマは家族旅行の思い出です。

各人が家族と旅行に行った思い出を語ります。それぞれ子供の頃の思い出が多いかもしれません。

 

旅行と言っていいのか分からないけれど、家族での旅行というと母の実家に車で帰省する時のことをいつも思い出します。

子供の頃からいろんな所に連れて行ってもらったはずですが、そんなものなのかもしれません。

長野県川上村の母の実家に行くのには、その時代時代の道路事情にもよって大きく所要時間は変わります。

中央自動車道が西線、東線がつながって6時間で行けるようになった時には、感慨深いものがありました。

長い間、中央自動車道西線は伊那北までしかつながっておらず、いくら父が飛ばしても8時間はかかっていたと思います。

川上の家にお昼過ぎに着けるように出掛けるというのが目標になっていたのか、道が混み始める前に中央道に入りたいというせっかちな父らしい考えがあったのか分からないけれど、いつも早朝の真っ暗なうちに高槻や神戸の家を出発していました。

真っ暗な町の誰も動いていない時間に出て、途中で明るくなっていく時間の流れや、移り変わる景色を助手席から見ているのがとても好きでした。

市街地は塀が高くて見えにくかったけれど、そこから外れると高速道路から外の景色もよく見えました。

1年に1回通るか通らないところですが、長い道のりでも町並みが劇的に変わることもありませんでした。

道々にある家がいつも通りにあって、変わらずに洗濯物が干してあったりしたら何か安心したり、いつも決まったサービスエリアでご飯を食べたり、休憩したり、車内で何か飲んだり、お菓子を食べたり毎回同じことを繰り返していた。

旅のサプライズ感は全くない車での移動だったけれど、そういうものが家族旅行の思い出として、いつまでも心に残っています。

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